真理を求めた裸婦の画家戸田吉三郎(1928年−2016年)
YOSHISABURO TODA
1950年代、パリの留学生会館にお互い居住していて親しくなった。
あれほど交歓した歳月。
描きなぐったような裸婦の素描や油絵。
たどたどしい筆あと。
土くさい彩色。
ぼくは好きだった。 (一部抜粋)
洋画家/東京藝術大学名誉教授 野見山暁治
それは有限な人生と、芸術の永遠とを行きつ戻りつできる、絵描きだけに約束された豊穣な場所。
戸田吉三郎とはその渚のような絵画空間を、存分に愛し、遊び尽くした人であったと僕は思う。 (一部抜粋)
キュレーター/東京藝術大学准教授 宮本武典
戸田吉三郎の裸婦を見ることは、もしかしたら鏡を見ることに近いかもしれません。
そこに写っているのはある女性の姿であるようでいて、鑑賞者自身の心情に他ならない。
戸田吉三郎は自身の絵画をそう考えていたような気がしてなりません。 (一部抜粋)
森岡書店店主 森岡督行
画家・戸田吉三郎とは
戸田吉三郎は生涯にわたり、独自の信念と哲学を持って、裸婦を描き続けた洋画家でした。
1928年、山形県尾花沢市に生まれた戸田吉三郎。10代になると尾花沢市の師範学校に通い、柔道に勤しんでいましたが、太平洋戦争が勃発。学徒勤労動員のため神奈川県・金沢八景の軍事工場に赴きます。
17歳の年に終戦を迎え、尾花沢に帰郷。師範学校に戻るも、柔道はGHQによって禁止されてしまいます。
進路を断たれた戸田吉三郎は、幼い頃から好きだった絵を描く道を選び、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。在学中より裸婦をテーマとした油絵を描き始めます。
卒業後1953年には、政府の支援を受けた戦後初の留学生として渡欧。洋画家・野見山暁治氏をはじめとした画家・作家・哲学者を志す若者たちと共にパリで学びました。
フランスから帰国したのは、1955年。日本は戦後復興のエネルギーに溢れ、美術界でもさまざまな前衛芸術やパフォーマンスアートが花開いた時代でもありました。
美術学校時代から周囲の注目を集める存在であった戸田吉三郎は、時代の波に乗った華やかな活躍を期待されていましたが、画家として選んだ道は真逆ものでした。
美術界や世間の潮流、評価に一切左右されず、ただひたすら創作に没頭。山小屋に籠もり、哲学書を読み、己の哲学を求めるように裸婦を描き続けました。
この独自のスタイルは早々に確立され、88歳の生涯を閉じるまで揺らぐことはありませんでした。
また作品について自ら語ることを拒み、経歴や時代背景などから分析されることも好まず、資料もほとんど残していません。
亡くなる2年前に出版した『戸田吉三郎画集』にも解説や制作年代、作品名すら記すことはなく、「作品がすべてを語る。観る者が感じたことがすべて。」という考えを最後まで貫きました。
戸田吉三郎の作品・評価
戸田吉三郎の描く作品は、いわゆる明るい絵ではありません。色数も少なく、全体の色調も暗い。デフォルメしたような太い輪郭に、塗り重ねたような粗い筆跡。作品に込められた情報も極めて少ないのが特徴です。
生涯にわたり描き続けた裸婦画も、女性の肉体美や官能を伝えるものとは大きく異なります。
大地を思わせる土気色の肉体、細かなディテールを省き、のびのびと捉えた身体の輪郭。
その裸体は性的な視点から遠く離れ、まるで雄大な自然を目の当たりにしたような大きさ、静けさと温かみを内包しています。
また時に粗い線で描かれた女たちからは、言い知れぬ生と死の気配、痛みも立ち上がってきます。
描かれた裸婦は近しい間柄の女性を描いたものも、単なるモデルもあります。ヨーロッパやメキシコ絵画の強い影響も感じられますが、一体何を描こうとしていたのか確かなものは残されていません。
数少ない資料として、アトリエに自ら墨で書いた詩のような言葉の数々があります。
私とは何か、他者とは何か、愛とは何か、正しさとは何か…。
その言葉には人間の業や欲、自分自身の心の内を問い正すような苦しさが滲んでいます。
生前、戸田吉三郎は家族に「自分は絵を通して真理を追求している」と話すことがあったそうです。
こうしたエピソードからも戸田吉三郎は裸婦を通して、表面的な美や善悪、倫理を超えたものを描こうとしていたのだと推察されます。
美術界の評価からも意識的に距離を置き、進んで無名の道を歩んだ戸田吉三郎ですが、一部の美術関係者から確かな評価を得ていたことも事実です。
1950年代には美術評論家・画商としても名高い福島繁太郎氏の目に留まり、福島氏が開廊したフォルム画廊で数年にわたり展示を開催。
元・朝日新聞美術記者で美術評論家・米倉守氏は幾度も戸田吉三郎の作品をについて取り上げ、裸婦画について「媚態がない」と評し、画家としての本質を高く評価しました。
戸田吉三郎・年譜※敬称略
- 1928年
山形県尾花沢市に和菓子屋「寒月堂」の三男として誕生。
- 1945年
終戦。得意の柔道がGHQにより禁じられ、絵を学ぶ決意をする。
- 1951年
東京美術学校(現 東京藝術大学)を卒業。
在学中より裸婦をテーマとした油絵を描き、裸婦画の大家として知られる寺内萬治郎に師事。
- 1953年
政府の支援を受けた戦後初の留学生として渡欧、パリに滞在。その間、欧州各地にも赴く。
- 1955年
帰国。
美術評論家・画商としても名高い福島繁太郎のフォルム画廊で数年にわたり展示を行う。
- 1964年
神奈川県逗子市にアトリエを構える。
- 1967年
絵画グループ「同時代」に参加。
- 1968年
欧州を巡る旅に出発。ヨーロッパから北アフリカ、アメリカ、メキシコなど各国を巡る。
- 1970年
帰国。「同時代」は1969年に解散したが、その後も同グループに所属していた岡本半三、冨成忠夫、堀内規次と共同展を開催。
またこの頃、人里離れた環境を求め、千葉県鋸南町の山中に制作の拠点を移す。
以来40 数年、逗子と鋸南町をフェリーで行き来する生活を続ける。
- 1975年
東京で初の個展を開催(パシフィック・ギャラリー)。
- 1980年
元・朝日新聞美術部記者で美術評論家 米倉 守が朝日新聞や『月刊 美術評論』で取り上げ、展覧会〈作家がいた〉展にも出品。
- 1981年
朝日アートギャラリーにて個展。
- 1982年
明日への具象展に出品。以後も東京で年2回の個展・共同展を継続して行う。
- 2014年
求龍堂から『戸田吉三郎画集』を上梓。
- 2016年
88歳で永眠。
1952年、パスポート写真。
1972年、千葉の制作小屋にて。
2014年、千葉の制作小屋にて。
©Ryoji Takemi
戸田吉三郎、作品についてのお問い合わせは下記まで。
戸田デザイン研究室 美術文化部
メールアドレス toda_design@mac.com
〒112-0002 東京都文京区小石川2-17-6
TEL 03-3812-0955